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ポップス黄金時代~ Popular Hit Parade ~

1950年代から現代までの、洋楽ポップス・ヒストリーを華やかに彩った偉大なるアーティスト達と、その時代に輝く名曲の数々を辿って参ります。
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リッキー・ネルソンのアメリカ芸能界でのキャリアは、子役として「陽気なネルソン一家」というTVホームドラマに出演した所から始まっていまして、このTVドラマは当時、NHKでも放送していましたからご覧になった方もいらっしゃるでしょう。

その後1957年には十代ながら早くもレコード・デビューしています。
これは、彼の父親オジー・ネルソンがスイングジャズのバンドリーダー兼作曲家だったという事から多分に親の七光り的な所があるのですが、所が彼の歌は”本物”でした。

ルックスの良さだけでなく美声の持ち主で、歌の才能も持っている美青年アイドル・シンガーとして、ティーンエイジャーにかなりの人気を誇っていまして、デビューシングル「I'm Walkin'」から数えて6枚目のシングル「プア・リトル・フール」で遂に全米No.1を獲得します。

それ以降も数々のヒットを飛ばしていますが、1961年には2曲目の全米No.1ヒット・シングル「トラベリンマン」を世に出しています。
このシングルのB面が、「ルイジアナ・ママ」のヒットでおなじみのジーン・ピットニー作曲の「ハロー・メリー・ルー」で、このシングルはこの時に両面とも大ヒットしていて、この「ハロー・メリー・ルー」もヒットチャートのトップ10入りを果たしまして、今でもこの2曲がリッキー・ネルソンの代表的な曲に挙げられています。

リッキー・ネルソンの当時のレコーディングではギタリスト/ジェームス・バートンがテレキャスターでバックアップしておりまして、その名プレイも要チェックです。

また彼は1961年に芸名を「リッキー・ネルソン」から「リック・ネルソン」に変えています。

1980年代まで息の長い芸能活動を続けていた彼ですが、1985年の末にコンサート会場へ向かう途中の自家用飛行機の墜落事故により、バンドメンバーやスタッフと共に残念ながら亡くなってしまいました。

また、1990年には彼の2人の息子が「ネルソン」というハード・ロック・グループでデビューしています。
ネルソン家は、カエルの子はカエル、という事でした。


「プア・リトル・フール」~オリジナル音源


「ロンサム・タウン」~当時のモノクロTV映像


「ハロー・メリー・ルー」~当時のモノクロTV映像


「ヤング・ワールド」~当時のモノクロTV映像


「It's Up To You」~当時のモノクロ映像


「トラベリン・マン」~オリジナル音源


「The Christmas Song」~この名曲を歌っています


「トラベリン・マン」~'80年代のTVのライブより


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ボビー・フリーマンはサンフランシスコ生まれの黒人シンガーソングライター兼ピアニストですが、何と言っても彼の名前を広く知らしめる事になったのは、1958年にリリースした「踊ろよベイビー/Do You Want To Dance」というビッグ・ヒットを生んだ事でしょう。

この曲はロックンロールというか、リズム&ブルースのカラーが色濃く残っている曲で、”踊ろうぜベイビー、そして月の下で一晩中オレを抱きしめておいてくれ”とセマる歌なのですが、それまでの黒人ロックンロールの様な激しさはそんなになくて、ややソフトで乗りの良いムードで聞かせる、といった所が特徴です。

その後、この「踊ろよベイビー」は色んなビッグアーティストにカバーされていて、それぞれのアーティストが独自の特色をこのカバー曲に持たせていました。
1964年にはデル・シャノン、'65年にビーチ・ボーイズ、'68年にアコースティックのソフトなバージョンで目を引くママス&パパス、'72年にベッド・ミドラー、'78年にラモーンズという、カバーしたアーティストにもそうそうたる顔ぶれが揃っています。

またボビー・フリーマンには1964年に「スイムで行こう/C'mon and Swim」というヒット曲もあります。


「Do You Want To Dance」~オリジナル音源・ディズニーのアニメで


「C'mon and Swim」~当時のモノクロTV映像


「踊ろよベイビー」~デル・シャノンのカバー・バージョン



1940年代から歌い始めたブロンド・ヘアーの女性歌手ペギー・リーは最初、ベニー・グッドマン楽団の専属歌手としてショービジネス界のキャリアをスタートし、それから後にソロとして独立しています。

その彼女が1958年に放ったミリオンセラー・ヒット曲が「フィーバー」。
ドラムとウッドベースだけというとてもシンプルなバッキングで、この曲をクールかつ妖艶に歌うペギー・リーのボーカルは秀逸の一言に尽きます。

この曲以前に彼女の名前を決定的にしたのは、1954年の映画『大砂塵』のテーマ曲としてヴィクター・ヤングが作曲した「Johnny Guitar」でしょう。

また、1955年にはウオルト・ディズニーのアニメ映画「わんわん物語」の中で使われた楽曲「He's A Tramp」を作詞・作曲し、また声優としても参加していました。

あの独特のハスキーなアルト・ボイスで歌うペギー・リーにしびれたオールド・ファンも数多くいらっしゃるでしょうね。


「Johnny Guitar」~オリジナル音源


「フィーバー」~オリジナル音源


「フィーバー」~1967年のスタジオライブより


「Why Don't You Do Right」~ベニーグッドマン楽団のボーカリスト時代のレア映像


「He's A Tramp」~これまたレアな「わんわん物語」のメイキングより



1950年代から'70年代にかけて活躍していたアメリカのスタンダード・ポップ・シンガー/ボビー・ダーリンは、生来の心臓病で元々15才までした生きられないと言われていましたが、音楽と出会ってスターを夢見たお陰で生きる力を得てシンガーとしてデビューしています。

以降、数々のヒット曲を生み出すだけでなく、俳優としても多くの映画に出演しており、またTV番組のホストをこなすなど、アメリカのショービジネス界で活躍していました。
残念ながら1973年に2度目の心臓手術の後、帰らぬ人となっています。

その彼の出世作が1958年の「スプリッシュ・スプラッシュ」で、この曲はロックンロール調ですが、ゴボゴボという水の音を使って、土曜の夜にお風呂に入ってはしゃいでる、という様子を歌った、どちらかと言えばノベルティ・ソング系の曲でした。

翌、1959年には、ヒットポップスにスイングを取り入れた「マック・ザ・ナイフ」が大ヒットしてヒットチャートのNo.1となり、彼の代表曲として末永く愛され続けています。


「スプリッシュ・スプラッシュ」~オリジナル音源


「マック・ザ・ナイフ」~当時のモノクロTV映像


「ドリーム・ラバー」~当時のモノクロTV映像より


「Beyond The Sea」~TVショーより


「ドレミの歌」~アンディ・ウイリアムズ、エディ・フィッシャー、ボビー・ダーリンの3人のパフォーマンス


「スプリッシュ・スプラッシュ」~1973年、生前最後のTVショーより



アメリカン・ポップスの世界には昔から、ナンセンスソングや、おもしろソングという類いの「ノベルティ・ソング」と言われるジャンルがあります。
とにかく理屈抜きに笑える、面白がれる、という類いの楽曲なのですが、やはりウケを狙うにはそれなりの工夫や仕掛けが必要になります。

その「ノベルティ・ソング」の中でも代表格と言われており、テープの早回しを効果的に使用してヒットさせたのがデビッド・セビルで、彼が1958年にリリースした「ウイッチ・ドクター」という曲は見事にヒットチャートのNo.1を獲得しています。

実はこのデビッド・セビルがかのアニメの、おもしろリス=チップマンクスの生みの親で、やはりテープの早回しを使ってこの年にチップマンクス名義でリリースしたクリスマス・ソング「ザ・チップマンク・ソング」もヒットチャートのNo.1を獲得しております。

そして日本では1967年に、それまで誰もやらなかったこのノベルティ・ソングの手法を用いて爆発的ヒットを飛ばしたのがフォーク・クルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」でした。
当時、日本中がこの曲に驚き、且つ面白がって、それまで誰も知らなかった京都の大学生フォークグループだったフォーク・クルセイダーズを一躍スターダムに押し上げたのでした。


「ウイッチ・ドクター」~オリジナル音源


「Bird On My Head」~オリジナル音源


「ザ・チップマンク・ソング(クリスマス・ソング)」~オリジナルアニメでどうぞ



オールディーズ・ポップスの女王と言えば勿論この人、コニー・フランシス。
60年代アメリカン・ポップスの歌姫とは正に彼女の事です。
この人の登場で遂にアメリカンポップスは黄金時代を迎えるのです。

彼女は、数々のヒット曲と共に今ではアメリカのヒットパレード界の伝説となっている女性シンガーで、日本でもその歌声と人気は永遠のものとなっています。

コニー・フランシスはイタリア系アメリカ人で本名はConcetta Rosa Maria Franconero。
彼女のデビューは1955年で、しばらくはヒット曲に恵まれず低迷を続けていましたが、1958年にリリースした11枚目のシングル「Who's Sorry Now」でとうとう火が付き、みるみるヒットチャートを駆け上って、あっという間にミリオンセラーを記録しました。

そして、この1958年には他に「アイム・ソリー」、「間抜けなキューピット」、「フォーリン」、「マイ・ハピネス」と立て続けにヒットを飛ばしており、そして翌年の1959年にも「カラーに口紅」、「フランキー」、「想い出の中に」などをヒットさせていますが、どれもその時代を代表する忘れられない名曲ばかり。

それ以降、'60年代まで数多くのヒット曲を量産しており、この時代を代表するNo.1女性シンガーの地位を獲得しています。

彼女の最大のセールスポイントである切ない”泣き節”とも言われるバラードの歌唱と、アップテンポ・ナンバーのパンチの効いた表現力は、他の誰にも真似の出来ない独特の魅力に溢れています。


「フーズ・ソリー・ナウ」~当時のモノクロTV映像


「間抜けなキューピット」~オリジナル音源


「カラーに口紅」~当時のモノクロTV映像


「フランキー」~当時のモノクロTV映像


「You're Gonna Miss Me」~当時のモノクロTV映像


「コニー・フランシス・ヒット・メドレー」~1981年のステージより



あなたに素敵なクリスマスが訪れます様に!


「Have Yourself A Merry Little Christams」~カーペンターズ


「Home For The Holidays」~リチャード・カーペンター


「It's the Most Wonderful Time of the Year」~アンディ・ウイリアムス


「Let it snow! Let it snow! Let it snow!」~ディーン・マーチン


「O Holy Night」~セリーヌ・ディオン


「Happy Xmas(War Is Over)」~ジョン・レノン


「Merry Christmas Darling」~カーペンターズ


「Silent Night(In Irish)」~エンヤ


Merry Christmas!

世の中に沢山あるクリスマス・ソングですが、どの曲も聞く度に心を暖かくしてくれます。

今日1日が、あなたにとって素敵なクリスマスであります様に!


「We Wish A Merry Christmas」~エンヤ


「Jingle Bell Rock」~ボビー・ヘルムス


「Winter Wonderland」~アンディ・ウイリアムス&ブラザーズ


「The Christmas Waltz」~カーペンターズ


「White Christmas」~ビング・クロスビーとフランク・シナトラ


「I'll BE Home For Christmas」~フランク・シナトラ


「The Christmas Song」~ナット・キング・コール/大好きなクリスマスソングです!


ザ・チャンプスというバンドは、テナーサックス、ギター2名、ピアノ、ベース、ドラムス、という6名編成のインスト・バンドで、元々はウエストコーストのセッション・ミュージシャンで結成されています。

その彼らが1958年にリリースしたインストゥルメンタル・ナンバーで、チャンプスとしての最大のヒット曲であり、チャートのNo.1を獲得した曲が「テキーラ」です。
この曲自体の持つ際立ったユニークさで、チャンプスというバンド名と共に輝かしいポップス・ヒストリーに永遠に残って行く存在となっています。

この曲は、ギター1本のカッティングから始まる冒頭から、ラテン風味の曲の進行と共に音が厚くなって盛り上がって行き、やがてまたエンディングへと音が薄くなってギター1本になって終わるという構成も面白くて、現在でも様々なバンドにカバーされています。

また彼らは「テキーラ」の大ヒットにあやかって1959年に「トゥー・マッチ・テキーラ」という曲もリリースしていました。


「テキーラ」~オリジナル音源


「トゥー・マッチ・テキーラ」~当時のモノクロTV映像より


オールド・ファンにとって忘れる事の出来ないポピュラー・オーケストラの代表格と言えば、このビリー・ボーン楽団の名前が真っ先に挙げられるのではないでしょうか。

イントロを聞いただけで「あ、ビリー・ボーンだ!」と分かってしまうオリジナリティ溢れる素敵なアレンジと独特のオーケストラ・サウンドは、「イージーリスニング」というジャンルを確立させたというとても大きな功績があり、もう一つの代表として挙げられるパーシー・フェイス・オーケストラと共に、これからも永遠に愛聴されて行く事でしょう。

そのビリー・ボーン楽団の代表曲であり、1958年に放ったNo.1ヒット曲が「浪路はるかに/Sail Along Silvery Moon」です。
この曲は冒頭のサックスのハーモニーが始まると、心地よいサウンドに思わず全身がリラックスしまいます。

ビリー・ボーンのヒット曲には他に、ビブラホンをフューチャーした「真珠貝の歌/Pearly Shells」や、ギターをフューチャーした「峠の幌馬車/Wheels」などがあり、どれもおなじみの名曲揃いです。


「浪路はるかに」~オリジナル音源


「真珠貝の歌/Pearly Shells」~オリジナル音源


「峠の幌馬車/Wheels」~オリジナル音源


「Swingin' Safari」~オリジナル音源



ダニー&ザ・ジュニアーズというグループは、フィラデルフィアの街角で誕生した白人4人組のドゥワップ・コーラスのグループです。

彼らが1957年にリリースした「踊りに行こうよ/At The Hop」は、1957年の末からヒットチャートをぐんぐん登り始め、翌’58年には見事チャートNo.1を獲得しています。

この1曲がダニー&ザ・ジュニアーズというグループの個性を決定付けたネアカのロックンロール・ダンス・ナンバーで、とにかく「踊りに行こうよ」と連呼していて、シンプルながらご機嫌なコーラスでみんなを楽しませてくれます。

それに続いて「Rock'n Roll Is Here To Stay」も、かなりのヒット作となりましたが、この2曲はとても似通っていて、ほとんど同じパターンで作り上げられており、正に「柳の下の2匹目のドジョウ」でした。

それでも、これがダニー&ザ・ジュニアーズだ!という主張がはっきりしていますので、今でも色あせる事なく楽しめる作品です。


「At The Hop」~当時のモノクロTV映像


「Rock'n Roll Is Here To Stay」~当時のモノクロTV映像



'50年代のロックンロール・ブームの立役者の一人として重要な人物、ジェリー・リー・ルイスの登場です。

彼は十代の頃は神学校で学んでいましたが、ブラックミュージックに傾倒して得意のピアノでロックンロールを演奏する様になり、プレスリーと同じくメンフィスのサン・レコードから1957年にデビューしています。

この年、彼の人気はまず「ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン」で火が付き、続いて放った「火の玉ロック/Great Balls Of Fire」でその存在感が決定的なものとなっています。

ピアノをぶっ叩く様に演奏しながら髪を振り乱して叫ぶ様に歌う独特のロックンロール・スタイルは彼のトレード・マークとなり、多くの観客を熱狂させていました。
また時にはピアノに油と火を放って演奏すると言った、後の、ギターを燃やしたジミ・ヘンドリックスの様な過激なパフォーマンスでも注目を浴びていました。

所が彼は、3人目の妻として13才の又従妹と結婚した事がマスコミで取り上げられ、前妻との離婚が成立していなかったために重婚が発覚して騒ぎが大きくなってしまい、その後、アメリカの芸能界から事実上追放されてしまいます。

この事が元で、ロックンロールは不良の音楽だ、という風当たりが強くなってしまったのも事実で、彼には「不良ヤンキー・ロックンローラー」という有難くないレッテルが貼られてしまいます。

それでも彼の残した音楽は熱く偉大なものであり、現在はロックの殿堂入りを果たしています。


「ホール・ロッタ・シェイキン・ゴーイン・オン」~当時のモノクロTV映像より


「火の玉ロック」~当時のスタジオライブより


「イギリスのTV番組・Ready Steady Go!(1964年)」より


サム・クックは19才の時にゴスペル・グループのリード・ボーカリストとして活躍しており、その端正なルックスでゴスペル界でも人気シンガーでした。
その後、1957年にソロ・シンガーとして独立し、リリースした第1弾のシングルが唯一全米No.1となった「You Send Me」でした。

この「You Send Me」は兄のL.C.クックによる作品で、とてもシンプルながら暖かい詞とメロディの曲で、それをサム・クックがソフトに歌い上げています。

この曲以降、立て続けにヒットを飛ばして行きますが、彼のヒット曲はポップス寄りのソウルといった感じの名曲が揃っており、今も世界中で愛聴されています。

残念な琴に、サム・クックは1964年、享年33才でロサンゼルスのモーテルで管理人に射殺されてしまいます。
余りにも早すぎる死でしたが、その死因については謎の部分も多いとか。

今では彼が元祖ソウル・シンガーと言われており、多くのアーティストから尊敬され続けています。



「You Send Me」~当時のモノクロTV映像より


「Bring It On Home To Me」~オリジナル音源


「Wonderful World」~オリジナル音源


「Twistin' The Night Away」~オリジナル音源


「Only Sixteen」~オリジナル音源


「A Change Is Gonna Come」~1964年、亡くなる直前の作品


1953年に映画界入りしたアンソニー・パーキンスは、出演した映画の中ではナイーブな青年役が多かった様な印象があります。
また、ヒッチコックのスリラー映画「サイコ」は彼の当たり役でしたが、なかなか怖い映画で子供の頃、最後まで見るのにはかなり勇気が要りました。

そのアンソニー・パーキンスもレコードを出していまして、1957年に放った唯一のヒット曲が「月影のなぎさ/Moonlight Swim」でした。

この曲はミディアムテンポのハワイアン調で、アンソニー・パーキンスがささやく様に「月明かりの下で泳ごうよ」と優しく歌うのですが、なかなかロマンチックな香りが漂う素敵なナンバーでした。

1961年に公開された映画「ブルー・ハワイ」の中ではエルビス・プレスリーがこの歌を取り上げており、映画のヒットのお陰でプレスリーの歌でもおなじみのナンバーとなっています。


「月影のなぎさ」~エルビス・プレスリー


「月影のなぎさ」~映画「ブルー・ハワイ」より



後世のミュージシャンに大きな影響を与えた'50年代の白人ロックンローラーとして必ず名前があげられる一人、それがバディ・ホリーです。

クリケッツのメンバーを率いてロイド眼鏡をかけたバディ・ホリーが、トレード・マークとなったソリッドギター/2トーン・サンバーストの'57年製のフェンダー・ストラトキャスターを弾きながら歌うスタイルは、'50年代のギタリストが持つエレキギターにギブソンのフルアコが多かった当時はとても新鮮だった様です。
そして、エレキギター2本とベース、ドラムスの4ピースというスタイルが、それ以降のバンドの基本となったのもバディ・ホリー&ザ・クリケッツからでした。

1957年にバディ・ホリー&ザ・クリケッツは「That'll Be The Day」でデビューしますが、この曲は見事ヒットチャートのNo.1となり、またミリオンセラーも記録しています。
それ以降、「It's so easy」、「Peggy Sue」、「Wordsof Love」と言ったヒット曲を立て続けに生み出しています。
当時、不良っぽい雰囲気を持つロックンローラーが多かった中で、眼鏡をかけてスーツ姿で演奏する清潔感のあるバディ・ホリーは、幅広い世代に受け入れられていました。

そして人気絶頂だった1959年の2月、ツアー公演中に移動のために乗ったチャーター機が吹雪の為に墜落してしまい、22才のバディ・ホリーはリッチー・バレンス、ビッグ・ホッパーと共に帰らぬ人となっています。
'80年代に公開されたリッチー・バレンスの伝記映画「ラ・バンバ」でも、このシーンが描かれていました。

バディ・ホリーはビートルズにも多大なる影響を与えており、そのバンドスタイルは勿論の事、アマチュア時代から彼の曲をいくつもカバーしていました。
ビートルズの前身で、まだ「クオリーメン」と名乗っていた1958年に、彼らはリバプールのとある電気店でお金を出して録音をして1枚だけレコード盤にカッティングしたのですが、その時に取り上げた曲がバディ・ホリーの「That'll Be The Day」と、ポールとジョージの共作「In Spite Of All The Danger」でした。
この1枚だけ作ったレコードが少し前に発見され、その音源はビートルズ・アンソロジー1に収録されています。

また現在、ポール・マッカートニーがバディ・ホリーの曲の版権を所有しているというのも有名な話です。


「That'll Be The Day」~オリジナル音源より


「That'll Be The Day」~当時のモノクロTV映像より


「Oh, Boy」~当時のモノクロTV映像より


「Peggy Sue」~当時のモノクロTV映像より



デビー・レイノルズと言えばまず「映画スター」と、どなたでも答えるでしょうね。

彼女は、カリフォルニア州バーバンクのミス・コンテスト入賞をきっかけに映画界入りし、1950年代には、フレッド・アステアの映画出演や、ジーン・ケリーのミュージカル映画「雨に唄えば」での好演でスターの地位を確立させています。
「雨に唄えば」でのジーン・ケリーとのダンス・シーンは、今でもミュージカル・ファンの語り草になっている位素晴らしいものでした。

その彼女が1957年に主演した映画「タミーと独身者/Tammy and the Bachelor」(残念ながら日本未公開です)で歌った主題歌「タミー」は、レコードがリリースされるやいなや、チャートをぐんぐん駆け上がり、やがて見事第1位を獲得しています。

このとても麗しくてロマンチックな曲調と、いつ聞いても思わず胸がキュンとなる様なデビー・レイノルズのキュートな歌声で、「タミー」は50年代ポップスの永遠の名曲の1つにあげられます。

余談ですが、映画「スター・ウォーズ」の最初の3部作でレイア・オーガナ姫を演じたキャリー・フィッシャーは、彼女の最初の夫で歌手のエディー・フィッシャーとの間に生まれた娘でした。


「タミー」~映画「タミーと独身者」より


当初、カントリー&ウエスタンの世界で歌い始めたドンとフィルの兄弟デュオ/エバリー・ブラザーズですが、1957年、彼らが若干18才と20才の時にデビュー曲「バイ・バイ・ラブ」でポップス界に打って出て、やがて全米で大ヒットとなります。

ギブソンのJ-200をベースにしたアコースティックギター/エバリーブラザーズ・モデルを抱えてハモる二人のスタイルはそれ以降すっかりおなじみのものとなりました。

このエバリー・ブラザーズの二人のハーモニー・ラインはアメリカン・ポップスの代表的なデュオ・ハーモニーとして、ビートルズのジョンとポールにも影響を与えており、また、サイモン&ガーファンクルにも多大なる影響を与えた事は言うまでもありませんが、このポップス界における2つの偉大なるグループ以外にもその与えた影響は計り知れないものがあり、'60年代から現在までのポップスの歴史に於いてとても重要な存在である事は間違いありません。

エバリー・ブラザーズは、デビューヒット曲の「バイ・バイ・ラブ」以降、続いて全米No.1となった「起きろよスージー」や、「(Till)I Kissed You」、「キャシーズ・クラウン」などの軽快なヒット曲の他に、「夢を見るだけ」、「Crying in the rain」、「Devoted to you」といった、とても美しいバラードの名曲も数多くヒットさせています。


「バイ・バイ・ラブ」~初期のモノクロTV映像より


「起きろよスージー」~オリジナル音源


「Bird Dog -(Till) I Kissed You」~初期のモノクロTV映像より


「夢を見るだけ - キャシーズ・クラウン」~初期のモノクロTV映像より


「Let it be me」~初期のモノクロTV映像より


「Crying in the rain」~ライブステージより


「Devoted to you」~オリジナル音源


「エバリー・ブラザーズとジェリー&ペースメーカーズのヒット・メドレー」~1965年のTV番組より


「起きろよスージー」~サイモン&ガーファンクル1981年のセントラルパークでのリユニオン・コンサートより


そして遂にオールディーズ・ミュージックのスーパー・スター/ポール・アンカの登場です。

彼は若干15才で、カナダのオタワからアメリカへスターを夢見てやって来たのですが、その15才の少年が自ら曲を作り歌って、やがて全米中に知れ渡るビッグヒットを放ちます。
その彼の、デビューにして全米で爆発的にヒットした曲が1957年の「ダイアナ」でした。

年上のお姉様「ダイアナ」に恋をした少年の心を歌ったこの曲は、当時の日本でも日本語でカバーされ、♪キミはボクより年上と、まわりの人は言うけれど・・・♪と歌われて一世を風靡しており、日劇のウエスタン・カーニバルでも盛んに歌われていました。
今では、オールディーズ・ミュージック全体の代表曲としてこの曲が取り上げられる様になっています。
勿論、今なおオールド・ファンのカラオケのメイン・レパートリーである事は言うまでもありません。
曲はG-Em-C-D7という典型的な循環コードの繰り返しで作られており、これ以上分かりやすい曲は無いという仕上がりです。

この1曲ですっかりスターダムにのし上がったポール・アンカは、その後も立て続けにヒットを飛ばし続け、'60年代ポップスの申し子となります。
「ダイアナ」をヒットさせた翌年には「君こそ我が運命/You are my destiny」という、これまたビッグ・ヒットを放っていますが、当時、若干16か17才の少年が「あなたこそ私の運命の人だ」と、こんなにドラマチックな曲を書いてしかも堂々と歌ったのですから、ポール・アンカは早熟でしかも恐るべき天才少年だったのでしょう。

そしてやがてはフランク・シナトラの名唱でおなじみの「マイ・ウエイ」を生む事になるのです。


「ダイアナ」~初期のモノクロTV映像


「ロンリー・ボーイ」~初期のモノクロTV映像


「You are my destiny」~最近のライブ・ステージより


「リメンバー・ダイアナ」~'63年の作品。ダイアナにフラれた歌!


「メドレー」~初期のヒット曲をメドレーで歌っています


~日本のTVショーに出演した時のひとコマ~


ロックンロールという言葉の語源は、「rock(揺らす)」と「roll(転がす)」という事で、それは一般的には「音楽的な躍動感に由来する」と言われますが、本来はアメリカの黒人のスラングで、「性交」とか「交合」という様な意味から来ています。
ですから初期のロックンロールの曲には性的なイメージを持っているものが多くあり、それを躍動的なサウンドで表現してハイになっていた、と言う事なのでしょう。

ですから、初期のエルビス・プレスリーがステージで演奏しながら腰をくねらせたりというボディ・アクションで歌うのは、その音楽に入り込んでいればこそ、自然の成せる業なのだと思います。
それを卑猥だ・青少年に悪影響を与える、などと言われて、世のお母様方や大人達の批判の的となったのです。
当時の様子を今見ると、そんなに騒ぎ立てる事もないステージアクションなんですが、それでも当時はこれで充分過ぎるほど過激だったのですね。

1950年代のアメリカで、ロックンロールという全く新しい「ニューウエーブ・ミュージック」が、いかに当時の若者を夢中にさせ、また熱狂的に受け入れられたか、そして一方で、大人達は「白人の若者が黒人音楽を聞いてその真似をして堕落している」と嘆いて社会問題にし、それを排除してかかるという現象まで巻き起こしている様子が、当時のフィルムに如実に記録されています。

このフィルムは、ロックンロールという言葉の名付け親で、そのロックンロールを全米で一大ブームにのし上げたDJのアラン・フリードが登場していますし、初期のエルビス・プレスリーほか、'50年代を代表する様々なロックンロール・アーティスト達の当時の活動の様子を見る事が出来る貴重な記録で、その時に流行った音楽と世相というものが良く分かってとても興味深いものです。

そして、登場したばかりのロックンロールは新鮮でしかも過激で、とても勢いがある音楽だったのですが、時が経つに連れて、それまで培われていた白人達のポピュラー音楽とミックスされて段々と角が取れて行き、1950年代の終り頃になると、やがては優等生的なおりこうちゃん若者向けポップスになってしまう訳です。

そのロックンロールがもう一度、初期の勢いと過激さを取り戻すには、1960年代に入ってイギリスから登場して来る4人の若者のグループの出現を待たなくてはなりませんでした。



「The Early Years - Original Rock & Roll Stars」Part 1


「The Early Years - Original Rock & Roll Stars」Part 2


「The Early Years - Original Rock & Roll Stars」Part 3


「The Early Years - Original Rock & Roll Stars」Part 4


「The Early Years - Original Rock & Roll Stars」Part 5


「The Early Years - Original Rock & Roll Stars」Part 6


「The Early Years - Original Rock & Roll Stars」Part 7


ロックンロール・アーリーイヤーに活躍した若きロックンローラーとして、必ず名前が上がる一人にこのエディ・コクランが居ます。

彼はまず、1956年に公開された映画「女はそれを我慢できない」に出演し、その映画の中で「トゥエンティ・フライト・ロック」を演奏して注目を浴びました。

その翌年の1957年にリリースしたシングル「バルコニーに座って/Sittin' In The Balcony」の大ヒットにより、ロックロール・シンガーとして人気を不動のものにしています。

そして、彼の代表曲として世界中のロックファンにエディ・コクランの名前と共にすっかりおなじみとなっているのが1958年のヒット曲「サマータイム・ブルース」でしょう。
この曲は、1969年のウッドストックでザ・フーがカバーして余りにも有名ですが、すでに現代に通じるロックの起源的な要素をたっぷりと持っています。

エディ・コクランは、その後も「カモン・エブリバディ」ほか、ロックンロールのヒット曲を連発していましたが、1960年、イギリスツアーの最中に、乗っていたタクシーが街灯に衝突して大破するという事故に遭い、同乗していたジーン・ビンセントは一命を取り留めたのですが、エディ・コクランは残念ながら亡くなっています。
その時彼は僅か21才でした。

もし彼がもう10年以上活躍していたらポップスの世界は変わったかも知れない?
それは”神のみぞ知る”でしょうね。


「トゥエンティ・フライト・ロック」~映画「女はそれを我慢できない」より


「バルコニーに座って」~ディック・クラーク司会のTV番組より


「サマータイム・ブルース」~初期のTV映像より


「カモン・エブリバディ」~初期のTV映像より


マーティ・ロビンスはカントリー&ウエスタン系のシンガーとして1950年代に活躍しており、ガイ・ミッチェルと共作した「ブルースを歌おう」をリリースしてポップス・チャートに登場して来たシンガーです。

その彼が自ら書いた作品で1957年にヒットチャートのNo.1を獲得したのがこの「白いスポーツコート/White Sport Coat」で、その頃いくつものオリジナル作品をヒットさせている、言わばシンガーソングライターのはしりとして活躍しています。

1957年というと、周りのポップスの大半がロックンロールに影響されたものとなっている時代で、彼のこの曲も若干その影響を受けていますが、あくまで明るく爽やかに歌い上げています。

その後も彼は基本的にカントリー&ウエスタンの世界で作品をリリースし続けており、素晴らしい楽曲をいくつも残しています。


「白いスポーツコート」~当時のモノクロTV映像


「ブルースを歌おう」~当時のカラー映像



ダイヤモンズという名前もオールディーズ・ミュージックの世界ではすっかりおなじみですが、彼らは、カナダ・オンタリオ出身の白人男性4人のコーラスグループです。

そのダイヤモンズの最大のヒット曲が、1957年の「リトル・ダーリン」。

この曲はまず、イントロの歌い出しで「ヤ~、ヤーヤーヤヤ~」というファルセットで始まる所がとても印象的でコミカルな曲で、それと対照的なのが間奏に出て来る低音ボイスの語り(セリフ)ですね。
この時代のヒット曲の中でも、アップテンポで楽しい曲の筆頭にあげられる一曲でしょう。

ですから、ドゥワップ・コーラスをロックンロールに取り入れて、それを愉快にコミカルに仕上げた、という所がこの「リトル・ダーリン」がヒットした原因なのでしょうね。

このダイヤモンズは当時、他に黒人のリズム&ブルースを数多くカバーしてヒットさせていましたが、後になって当時の彼らは「黒人音楽をパクッた」と言われていました。

当時のアメリカではまだまだ人種差別という問題がありまして、黒人音楽がメジャーのヒットチャートには昇りにくいという状況がありまして、オリジナルの黒人音楽をカバーしてメジャーヒットさせた白人達が多く居たのも事実です。


「リトル・ダーリン」~当時のモノクロTV映像


デル・バイキングスは、当時としては珍しい黒人と白人5人の混成ドゥ・ワップコーラスグループで、このグループは1955年にピッツバーグの空軍基地の中で誕生しています。

そしてこのグループ最大のヒット曲が1957年に発表された「Come Go With Me」で、何と言っても印象的なのがイントロの歌い出しの「ダンダンダンダ~ン、ダ~ンビドゥビダ~ン・・・ワ、ワ、ワ、ワ~ア~」というスキャット部分で、ここだけで、すでにこの曲が成功したという事が分かるという位の存在感があります。

僕と一緒に来て僕を愛して、と一生懸命女の子を口説いてる歌ですが、ミディアムテンポでゆったりとした曲調ですから、あせらずにのんびりと口説いているんでしょうね。

このグループには他に「Whispering Bells」というヒット曲もあります。
こちらの方はアップテンポの典型的フィフティーズ・ドゥワップ・ナンバーです。

このデル・バイキングスからソロ・デビューしたシンガー/ガス・バッカスは後に「恋はすばやく/Short On Love」をヒットさせて日本でもおなじみのシンガーとなっています。


「Come Go With Me」~オリジナル音源です


「Come Go With Me」~最近のステージより


「Whispering Bells」~オリジナル音源です


「Whispering Bells」~最近のステージより



昔から洋楽の日本盤には、英語のタイトルをそのままカタカナ表記にするだけで出されるものと、オリジナルタイトルを意訳した邦題が付けられる場合とがあります。

その邦題には、上手に意訳していて、なかなか言い得て妙だな、上手い邦題を付けたものだ、と感心するものや、中にはオリジナルとはちょっとニュアンスが違っているのでどうなんだろう、と思えるものもあったりします。

この「ブルースを歌おう/Singing The Blues」も、オリジナルの英語タイトとほとんどそのままの様に思えますが、歌詞の内容から見ると実は少しニュアンスが違うのです。
邦題をそのまま受け取りますと、まるで「さあ、みんなでブルースを歌おう!」と張り切って言ってる様にも取れますが、そうではなくて「君のせいで悲しいブルースを歌うんだ」と嘆いているというのが歌詞の内容です。

ガイ・ミッチェルは、この曲を歌って1956年に初めて全米ヒットチャートでNo.1を獲得しています。
彼の歌の雰囲気がいかにもオールディーズと言うか、ブルージーに聞こえてなかなかいい感じです。

実際この曲は、カントリー&ウエスタン系のシンガーであるマーティー・ロビンスが同じ1956年ですが、先にリリースしてヒットさせています。
ですが、マーティー・ロビンスのバージョンは、いかにも、といった感じのカントリー調で、あっさりとしていて余りブルージーには聞こえません。

後からリリースしたのですが、ガイ・ミッチェルのバージョンがNo.1になったのも、ポップでブルージーな彼独特のボーカルの個性が受け入れられたからという様に思えますね。


「ブルースを歌おう」~ガイ・ミッチェルのオリジナル音源で。


「ブルースを歌おう」~マーティー・ロビンスのカラー映像です。


「ブルースを歌おう」~ポール・マッカートニーのアンプラグドLIVEより



1950年代の後半にブームとなったフォークソングですが、それにはその先駆者と言うべきアーティストがいます。

その元をたどれば、どうしても「アメリカのフォークソングの父」と呼ばれる「ウディ・ガスリー」に行き着きますし、そのウディの元で歌う様になり、第2次大戦後まもなく活動を始めた元祖フォークグループ「ウイーバーズ」がいます。

ウイーバーズは戦後間もなく活動を開始しますが'50年代になると解散し、その後、メンバーはそれぞれが様々な活動を行っています。
中でも「花はどこへ行った」の作者・ピート・シーガーなどの活躍は特に有名ですね。

ウイーバーズのオリジナルメンバーのテリー・ギルキーソンはイージーライダーズというフォークグループを結成し、その当時のフォークブームの黎明期に活躍しております。

モダンフォーク・ブームの中では、様々な民謡を今風に歌うという活動が盛んに行われておりまして、テリー・ギルキーソンはある日、とあるバハマ民謡を取り上げる事にしました。
折しもバナナ・ボートで代表される「カリプソ」というトロピカルなサウンドがブームになっており、そのバハマ民謡をカリプソのサウンドに仕立てて発表した曲が「マリアンヌ」です。

この曲は、明るく軽快でしかも楽しい曲調だからでしょうか、当時は幅広い世代に受け入れられておりまして、男性4人組のコーラスプループ「ヒルトッパーズ」もレコーディングして発表しましたが、たちまちヒットしましておなじみの曲となっています。

この曲はそれ以降、いくつかのカバーを生んでいますが、日本でもおなじみになったのは、'59年にデビューしてたちまち人気フォーク・グループとなったブラザーズ・フォアのバージョンでしょう。


「マリアンヌ」~オリジナル音源より


「P.S. I Love You」~オリジナル音源、ビートルズとは同名異曲です。古き良きアメリカのスタンダードの雰囲気ですね。


「From The Vine Came The Grape」~オリジナル音源より



「カリプソ」というトロピカルな音楽は、カリブ海に浮かぶトリニダード・トバゴ島を起源として生まれ、ジャマイカを中心にそのサウンドが演奏されておりまして、1950年代の後半から世界的に大流行しています。

そのカリプソを世界に広めた最大の功労者と言えばハリー・ベラフォンテですね。
彼はジャマイカ系アメリカ人として、ニューヨークのハーレムで生まれています。

ハリー・ベラフォンテはアルバム「カリプソ」を1956年にリリースしており、このアルバムはそれと同時に大きな話題となりまして、やがてミリオンセラーを記録しています。
そのアルバムの中でも代表的な曲となったのが「バナナ・ボート」です。

この曲、元々はジャマイカのワークソングで、バナナを船に積む時に歌われた労働歌なのですが、ハリー・ベラフォンテによってカリプソとして取り上げられ、全米でも大ヒット曲となり、やがて世界中で彼の代名詞的な曲となっております。

歌い出しの「デーオー、デーーオー」という所を聞いただけで「ああ、バナナ・ボートだ」と分かる位の個性を持った曲ですね。

それからハリー・ベラフォンテは「さらばジャマイカ」、「マチルダ」、「陽のあたる島」、「カムバック・ライザ」ほか、数多くのカリプソ・ナンバーを立て続けにヒットさせます。


「バナナ・ボート」~マペット・ショーのひとコマ


「さらばジャマイカ」~これもカリプソの代表曲の一つです。


「ママ・ルック・ア・ブーブー」~ナット・キング・コールと一緒に楽しそうに歌っています。


「マチルダ」~これもハリー・ベラフォンテを代表する曲。


「スカーレット・リボン」~子供の事を歌ったとても優しい歌です。



1950年代の後半は、アメリカのポピュラー音楽の世界でロックンロールという新しい音楽が一大ブームとなってセンセーションを起こした時代であり、ヒットパレードの世界がそれまでとガラリと変わってしまった時代でした。

そしてここが面白いのですが、それとほぼ同時に、古い伝統的なアメリカ民謡/いわゆるトラディショナル・フォークソングを今風に歌って演奏するという「モダン・フォークブーム」が大学生を中心に、これもまた一大ブームを巻き起こした時代でもあります。

そしてそのフォーク・ミュージックの世界でも、ブームに乗って人気アーティストを次から次へと輩出して行ったのです。

このロックンロールとフォークソングというとても対照的な2つの音楽が、1050年代のアメリカのポピュラー界で、ほぼ同時にブームとなったというのが何とも不思議で面白い所ですね。

一方のロックンロールは「動」、方やフォークソングは「静」といった感じで、端的に言うと、若者が飛びついたロックンロールと、大学生の間で人気となったフォークソングという事が言えるでしょう。
そしてそのどちらもが日本にも輸入音楽として入って来て、やはり一大ブームになっているんですから。

ただ、当時の大人達は、ロックンロールは’不良の音楽’という風なレッテルを張りたがっていましたし、一方のフォークソングは、ちょっと’知的’で、大学生が生ギターを持ってスマートに演奏するのがカッコいいと、もてはやされていた時代でもありました。

いずれにせよ、全くスタイルの違う2つの音楽ジャンルが、同じ時代に若者の音楽として急速に流行っていった訳です。
そしてその2つの異なったジャンルの音楽は1960年代の中頃、ボブ・ディランの手によって融合され、やがてフォーク・ロックという、さらに新しい音楽へと発展して行くのです。

それ以降は様々に形態を変えながら現代にも続いていて、今のポピュラー音楽の中にも脈々と流れていますね。

アメリカの歴史の中で長年に渡り愛されて来た伝統的な音楽/カントリー&ウエスタンを忘れてはいけません。

元々は古い民謡を生ギターやバンジョーなどを演奏しながら歌い継いで行ったものが、長い年月の間にジャンルとしてすっかり定着したものだと思います。
アメリカではグラミー賞にしっかりとカントリー&ウエスタン部門というものがあるのですからね。

ただ最近はカントリーという音楽が時代の流れから取り残されつつある様な印象があります。
やはりブーム再興にはロックンロールの世界でのエルビス・プレスリーの様な、センセーションを巻き起こすビッグスターの出現を待つしかないのでしょうか。

'50年代に活躍していたソニー・ジェームスは、若きカントリー&ウエスタン・シンガーで、彼の代表曲が1957年に大ヒットした「ヤング・ラブ」です。
これはもう日本でもすっかりおなじみの曲になっていましてその当時、生ギターを弾きながら「ヤングラ~ブ」と歌ってた若者が沢山いましたね。

歌詞の内容も、「清く美しい真実の初恋を僕は見つけた」という優しく初々しいもので、これならどこのお茶の間でも好まれる、というものでした。
俳優のタブ・ハンターも同じ年にカバーしてリリースしており、こちらもヒットを記録しています。


「ヤング・ラブ」~当時のモノクロTV映像より



ファイブ・サテンズは、その名の通り5人組の黒人ドゥ・ワップコーラスグループです。

彼らの最大のヒット曲が1956年の「In The Still Of The Night」で、イントロからしてこの手のコーラスの典型的なスキャットのパターンで始まるという、ドゥ・ワップ史に残る名曲中の名曲です。

この曲は、グループのリードシンガーであるフレッド・ハリスの作品で、ミディアム・スローなテンポでムードたっぷりに歌い上げる曲ですが、何度聞いてもうっとりとしてしまう、本当に良いメロディですし、フレッド・ハリスのフィーリングが抜群ですね。

彼らのヒット曲では他に、映画「アメリカン・グラフィティ」にも使われた「 To The Aisle」がありますが、やはりこの「In The Still Of The Night」が断トツです。


「In The Still Of The Night」~当時のモノクロTV映像、何故か4人です


「To The Aisle」~オリジナル音源でどうぞ


1951年に「Cry」という全米で11週間No.1となったビッグヒット曲で有名なジョニー・レイは、エルビス・プレスリー登場以前の唯一の白人R&B歌手だ、と言われています。
実際、彼の歌がラジオから流れている時には良く、黒人の歌手だと思われていたそうです。

彼は「Prince of Wails(泣き叫びの皇子)」とか「Nabob of Sob(すすり泣きの大金持ち)」と呼ばれていましたが、その訳は、いかにも嘆き悲しむ様な歌い方をしていたから。
レイは当時、黒人女性R&B歌手のRuth Brownからそういう風な歌い方を学んだそうです。

今ではジョニー・レイの音楽がロックンロールの原型だ、とも言われていますが、確かに源流の1つとも言えるでしょうね。
彼は、ライブでピアノを弾きながらの激しいステージングが売りの1つだったのですが、これもまた、後のロックンローラー達に大きな影響を与えています。

そして、「Cry」と同様に彼の代名詞となっているミリオンセラー・ヒットが1956年の「Just Walking in The Rain(雨に歩けば)」で、日本でも大ヒットを記録してすっかりおなじみの曲ですが、この曲でも彼の泣き節はたっぷりと聞く事が出来ます。


「Cry」~オリジナル音源


「Just Walking in The Rain(雨に歩けば)」~オリジナル音源


「Walkin' My Baby Back Home 」~TVのステージより、いかにもアメリカンソングですね


「Shake a Hand」~TVのステージより



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