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ポップス黄金時代~ Popular Hit Parade ~

1950年代から現代までの、洋楽ポップス・ヒストリーを華やかに彩った偉大なるアーティスト達と、その時代に輝く名曲の数々を辿って参ります。
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パット・ブーンが1961年にリリースした「ムーディ・リバー」は、またまたヒットチャートのNo.1を飾る曲でした。

曲のタイトルから「ムーディーな川」という事でロマンチックな中身を想像しがちなのですが、歌詞を見るとそうではなく、濁った川に飲み込まれて亡くなった恋人を偲ぶ、という内容になっており、それで日本語タイトルに「涙の~」と付いてるのですね。

軽やかなタッチのミディアムテンポの曲ながら、ちょっとしっとりと歌うパット・ブーンのボーカルがとても印象的であり、それにピアノのフレーズがうまく絡まるというアレンジになっていて、その辺がヒットした理由でしょうか。


「涙のムーディ・リバー」~オリジナル音源

「涙のムーディ・リバー」~当時のTVショーより

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ドリフターズという人気黒人コーラスグループのリードボーカリストとして活躍後、ソロシンガーとして独立したベンE.キングが放った、彼最大のヒット曲であり、今やすっかりスタンダードとなったのがこの1961年にリリースされた「スタンド・バイ・ミー」です。

楽曲の作りとしてはとにかくシンプルで、同じフレーズがリフレインされ、それで段々と盛り上がって行くという構成になっております。

これはリズム&ブルースなどの黒人音楽に良く出て来る手法で、同じフレーズ等がずっとリフレインされていくうちに、聞く人に完全にインプットされてしまうのですね。

ですからこの曲はA-F#m-D-E7という8小節の循環コードが延々と繰り返されるだけ。
「えっ? それだけなの?」というくらいコード進行は超簡単なんですね。

そしてその循環コードを支えているベース・ラインがこの曲のミソであり、そのベース・ラインは曲の個性化に大きな役割を果たしておりまして、曲のメロディラインと対比的に進行する様に上手く出来ている良いフレーズで、曲が終わるまでにはもうその8小節のフレーズをまんま覚えてしまいます。

進行的にはシンプルな循環コードだけなのですが、良いメロディと良いアレンジでこんな名曲になるのですから、これがポップス・マジックなのでしょうね。

またこの曲は、1987年に同じ「スタンド・バイ・ミー」というタイトルの映画が公開された時にタイトル曲として使われており、そのお陰で再びトップ10入りするというリバイバル・ヒットを記録しています。

それでオールド・ファンだけでなく、幅広い年代の方に聞かれている訳ですね。


「スタンド・バイ・ミー」~オリジナル音源/プロモ映像

リジェンツが1961年に放ったヒット曲「バーバラ・アン」は、ドゥ・ワップ調で作られている楽曲全体がとても個性的であった事と、後にビーチボーイズにカバーされ、そのバージョンも大ヒットした事からポップス史にしっかりと足跡を残しています。

この曲は、「♪バー・バー・バー、バーバーラ・ア~ン♪」という印象的な歌い出しで始まり、全編に渡るコーラスとファルセット・ボイスがとてもインパクトのある特徴的なヒット曲でした。

ですからビーチボーイズの方も原曲を特に変える事なく、素直にそのままカバーしておりますが、コーラスとファルセット・ボーカルと言う、まるでビーチボーイズの為に有ったのでは、というくらいぴったりとマッチした楽曲で、ライブでも必ずと言っていいほど取り上げられておりました。

リジェンツというグループは早くから姿を消しましたが、それよりも楽曲の「バーバラ・アン」の方はポップス・ヒストリーの中で長い寿命を誇っていますね。


「バーバラ・アン」~リジェンツのオリジナル・バージョン

「バーバラ・アン」~こちらはビーチボーイズ/TVショーのステージより

リンダ・スコットは、10代の頃から活躍していたアメリカの可愛い子ちゃんシンガーですが、ルックスだけのアイドルではなく、しっかりした歌唱力の持ち主でした。

その彼女が16才の時にリリースしたデビューシングルが1961年の「星に語れば(I've told every little star)」です。

「ダム、ダラム、ダ、ララララララララ、ダム、ダラム・・・」というイントロの歌い出しの部分ですでにヒットが約束されていた、そんなとても可愛いくてチャーミングな曲でした。

こういう素敵な歌を歌ってたリンダ・スコットは、今から思えば、もっとビッグなスターになっても良かったと思える一人ですね。

所で、この邦題の「星に語れば」というのは、ティーンエイジャーの可愛い子ちゃんシンガーの曲としてはどうなのかなあ、と思ってしまうのです。

「小さな星とお話したら」くらいに可愛くまとめた方が良かった様な気がします。


「星に語れば」~オリジナル音源

「I Don't Know Why」~こちらはまた素敵なバラード

「Yeseree」~当時の映画の一シーンでしょうか

60年代ポップスを代表する名曲の誉れ高いデル・シャノンの「悲しき街角(Runaway)」は、1961年に華々しく登場しています。

デル・シャノンという個性的な名前とこの曲は、熱心なファンでなくてもご存知の方が多いと思いますが、それ位何十年にも渡って聞かれ続けており、1961年にリリースされてチャートのNo.1を獲得すると共に、ミリオンセラーを記録した曲でもあります。

デル・シャノンはシンガーとしてだけでなく、ソングライティングにおいても当時から非凡な才能を発揮しておりますが、やはりこの曲が彼の最高傑作でしょう。

そして、とても耳に残る間奏の16小節のオルガン・ソロですが、ソロが始まると「待ってました!」と思わせる様に、これが無けりゃ「悲しき街角」じゃないという位の、この曲を代表する’いいフレーズ’ですね。

日本では当時、飯田久彦がカバーして「♪街角で別れた~あの娘は今~何処に居る~♪」と歌われておりましたが、こちらもかなりヒットしていました。

オールディーズ・ナンバーで数多くある「悲しき~」という邦題が付けられた楽曲の中でも、やはりこの曲の印象は強いですね。


「悲しき街角」~オリジナル音源

「悲しき街角」~’82年のライブより

リッキー・ネルソンが1961年にリリースした「トラベリン・マン」は、彼自身の2曲目のヒットチャートNo.1ソングとなりまして、今でも彼の代表曲として挙げられています。

「世界中どこへ行っても僕には可愛い彼女が居るんだ。」という内容のミディアムテンポの明るい歌で、間奏のジェームス・バートンのばっちり決まったギター・フレーズと共に長い間、オールディーズ・ポップスファンの心に残り続けている名曲ですね。

そして、そのシングルのB面に収録されていたのがジーン・ピットニー作の「ハロー、メリー・ルー」なのですが、実は当時こちらもヒットチャートのベスト10入りを果たす大ヒット曲となっておりまして、このシングルレコードは、いわゆる両面ヒットというゴールデン・シングルだった訳です。

こちらの方は、カントリー・タッチでノリ良く軽快に飛ばしている曲で、間奏のジェームス・バートンのギター・ソロも、’上手い!さすが名人’と唸らせてくれます。

今聞いても、これがシングルのB面?もったいない、次のシングルカットにすれば良かったのに、と思う位、曲もサウンドもボーカルも良いのです。

リッキー・ネルソンというと、代表曲として必ずこの2曲のタイトルが出て来るくらい、どちらもが彼を象徴する曲なんですね。


「トラベリン・マン」~オリジナル音源

「トラベリン・マン」~こちらは'80年代のステージより

「ハロー、メリー・ルー」~オリジナル音源

「Mother-In-Law(ままはは)」とは、ちょっとドキっとする、どちらかというと風変わりなタイトルですが、ドゥ・ワップ・コーラスをバックにアーニー・K.ドゥが明るく歌って1961年にヒットさせたのでした。

この曲を聞くと、どうしても大滝詠一のアルバム「ナイアガラ・ムーン」を思い出してしまうのですが、アルバム収録曲の「楽しい夜更し」は、この「Mother-In-Law」が下敷きとなって出来ていますね。

大滝詠一は「はっぴえんど」解散後、オールディーズ時代のアメリカンポップスの膨大なレコード・コレクションとその研究をベースに、それらを曲作りに生かしながらアルバムをリリースしておりまして、随分ファンを楽しませてくれました。


「Mother-In-Law」~オリジナル音源

「ブルー・ムーン」という曲は、古き良きスタンダードナンバーとして、昔から数多くのシンガーに歌われて来た名曲です。

そのブルー・ムーンが一転、アップテンポのドゥ・ワップ・ナンバーとして装いも新たに登場したのが1961年、歌ったのは黒人5人組のコーラス・グループ「マーセルズ」で、見事にヒットチャートのNo.1を獲得しています。

これは、この過激なリアレンジが見事に当たったという事なのですが、昔からのスタンダード・ファンは、このバージョンの登場にさぞかし眉をしかめたでしょうね。

でも元のバージョンを知らずに聞くと、のっけから始まる特有の「バーボボ、バーボボ・・・」というスキャットとノリの良いテンポにすぐ乗せられてしまう、そんな楽しい仕上がりです。


「ブルー・ムーン」~マーセルズのドゥ・ワップ・バージョン

「ブルー・ムーン」~こちらはダイナ・ショアのムーディーで美しいバージョン

「ブルー・ムーン」~ちょっと小粋に歌うフランク・シナトラのバージョン

「ブルー・ムーン」~キング・エルビスもカバーしています


シャドウズは、’60年代のイギリスが誇るエレキ・インストグループで、昔からアメリカのベンチャーズと対比して語られ続けて参りました。

ベンチャーズのサウンドがモズライト・ギターに代表されるハイ・パワーなピックアップのパワフルでワイルドな、アンプのボリュームをフルにして自然に歪ませた音が特徴なのに対して、シャドウズ・サウンドは、リードギタリストのハンク・マービンのトレードマークである'57年のフェスタ・レッドのフェンダー・ストラトキャスターで奏でるエコーの効いたスマートで甘いクリーン・トーンが特徴でした。

また'60年代の中頃になると、イギリスのギターメーカーであるバーンズで開発した白いハンク・マービンモデルが、シャドウズのもう一つのトレードマークとなっていました。

このグループはイギリスのエレキ・インストの世界で数多くのヒット曲を放っておりましたが、もう一つ、クリフ・リチャードのバックバンドとしてクリフの初期のステージを支え続けた事も忘れてはいけません。

クリフの初期のヒット曲「ヤング・ワン」のイントロから流れて来るあの甘いストラト・サウンドのフレーズは、この曲の個性をしっかりと際立たせています。

そのシャドウズが1960年に放ったヒット曲「アパッチ」は、本国イギリスで見事No.1を獲得しております。

「アパッチ」というタイトルからアメリカ産だろうと思われやすいのですが、実はイギリスで生まれた曲でした。

この曲はベンチャーズも早くからカバーしており、やはり本家シャドウズがいい、いや、ベンチャーズのカバーの方がいい、などと当時からファンの間で議論伯仲した曲でした。

確かにベンチャーズのバージョンでは「フィ・フィ・フィ・フィ」という特徴的な音やミュート・トリルなど、エレキ・インストならではの様々なギター・テクニックやアイデアが盛り込まれておりまして、これもまたとても魅力的ではあります。

しかし当時は、イギリスで絶大なる人気を誇るシャドウズも、アメリカでは全くヒットしていなかったというか、この頃はまだイギリス産のポップミュージックがアメリカで売れる事はほとんど無かったのです。

ブリティッシュ・イノベイジョンは、’ファブ・フォー’が出現する1964年まで待たなければいけなかったのでした。


「アパッチ」~当時のモノクロ映像

「アパッチ」~こちらは1964年のステージより/ギターは白のバーンズ・マービンモデルです。

「アパッチ」~2004年という、最近のライブ映像より/そのサウンドは全くと言っていいほど変わっていません!ギターもトレードマークのフェスタレッドのストラトです。

「アパッチ」~こちらはハンク・マービンのビデオより

「アパッチ」~こちらはべンチャーズのバージョン/まだフェンダー・トーンの時代

「アパッチ」~'65年の来日公演のステージより/こちらはモズライト・サウンド

コニー・フランシスが1961年にヒットさせたバラード「ボーイ・ハント(Where The Boys Are)」は、数あるオールディーズ・バラードの楽曲の中でも最高傑作と言ってもいいのではないでしょうか。

ハワード・グリーンフィールドとニール・セダカという作詞・作曲コンビによって生み出されたこの名曲は、彼女が初めて出演した同名映画の主題歌としてリリースされたものですが、特に日本ではコニー・フランシスの代名詞とでも言える曲で、当時はレコードが爆発的に売れまして、後に彼女自身が歌った日本語バージョンまでリリースされたほどでした。

そして「♪わ~たし~の~だい~す~きな~♪」と日本語で歌った伊東ゆかりさんのカバー・バージョンも、本家に負けず劣らずとてもチャーミングでした。

1980年代にコニー・フランシスが来日した際にミュージック・フェアに出演しまして、その時はもうすっかりおばさまになっていましたが、その歌声は全くと言っていいほど色あせてはいませんでした。

その番組の際に、司会者との会話の中で彼女はボーイ・ハントの曲の事を「ワタシノ」と呼んでいましたが、これは原曲の歌い出しの部分「♪Where~the boys are~♪」がそのままタイトルになっているので、日本語バージョンの歌い出し部分をそのまま言ったのでしょうね。

コニーの歌声の、思わず胸がキュンとなる様なあの独特の’泣き節’は、彼女のバラードのもうひとつの代表作「渚のバラード」でも遺憾なく発揮されていますが、いつ聞いてもいいですねえ。

所でこの「ボーイ・ハント」という曲名は、一見オリジナルタイトルの様に思えるのですが、実は日本で付けられた邦題で、原題は「Where The Boys Are」~「私の彼氏は何処にいるの?」という意味ですね。

「ボーイ・ハント」は何と!日本語英語なのでした。

「ガール・ハント」(この言葉も、もはや古語ですね)に対して「ボーイ・ハント」と名付けたのでしょうが、この邦題、一体誰が付けたのでしょうか?


「ボーイ・ハント」~オリジナル音源

「ボーイ・ハント」~コニー・フランシスが歌う日本語バージョン/歌い出しが「♪あ~たし~の~♪」になっています。

「ボーイ・ハント」~伊東ゆかり/TV番組より。残念ながら1コーラスのみ。


1961年に入って、またまたオーケストラのインストもののチャートNo.1ヒット曲が生まれています。

それはローレンス・ウェルクの「夢のカルカッタ」。

軽快なテンポと明るいメロディに乗せて、万人を楽しませる作品となっている所がヒットした要因なのでしょう。

ですからダンス・ミュージックにも最適です。

この曲は、珍しくハープシコードをフューチャーしておりまして、途中でアコーディオンも登場するという、楽器編成もなかなか時代を感じさせて楽しいですね。

所で、カルカッタってどこの国にある都市なの?~はい、インドです。


「夢のカルカッタ」~TV映像より

「1月から12月まで、一年中毎日の様に君を愛してるよ。」とニール・セダカが底抜けに明るく楽しく歌う「カレンダー・ガール」は、1960年から1961年にかけて年をまたいでのヒット曲でした。

この曲は当時、ニール・セダカのヒット曲として日本でもすっかりおなじみになりましたから、♪ア、ラバ、ラバ、ラバ、カレンダーガール~♪と誰でもイントロのフレーズが口から出て来ます。

この曲では1月から12月までの毎月の出来事を歌詞に盛り込むというアイデアがウケたのですが、これはこの頃ずっとコンビを組んでいた作詞家のハワード・グリーンフィールドの功績が大でしょう。

ニール・セダカのハイ・トーンヴォイスは、こういったネアカな曲にはぴったりですね。


「カレンダー・ガール」~オリジナル音源/プロモ・フィルムの様です。

1959年に「スージー・ベイビー」という曲をひっさげて若干16才でデビューしたボビー・ビーが翌年の1960年にリリースし、彼の代表作の1曲となったのがこの「ラバー・ボール」です。

「僕はゴム・ボールの様にバウンシングして君の所へ帰って来るよ」と、くったくなく明るく歌っておりまして、他愛もない歌詞ではありますが、このどこまでも爽やかな歌声がヒットした理由でしょうか。

この曲も延々と循環コードで出来ておりますが、やはりこの時代にはこの手の曲が’山ほど’あったんですね。


「ラバー・ボール」~オリジナル音源

「スージー・ベイビー」~こちらがデビュー曲/オリジナル音源

エルビスの初期におけるバラードの極め付けと言えば、この1960年にリリースされた「今夜は一人かい(Are You Lonesome Tonight)」でしょう。

ゆったりとしたワルツのリズムに乗って、初期のレコーディングでおなじみのジョー・ダニアーズのソフトなバック・コーラス、ハミングをバックにエルビスの語りが出て来る所など、当時、世界中のファンを心行くまでしびれさせた名作です。

あの独特の節回しで語りかける様に歌う~ロックンロール・キング/エルビスは、バラードを歌わせてもやはり天下一品でした。


「今夜は一人かい」~オリジナル音源

「今夜は一人かい」~1972年のライブより

1960年代のアメリカの黒人ガール・グループのヒット曲は、イギリスでもアマチュア時代のビートルズなどに多大なる影響を与えていますが、このシュレルズもビートルズがカバーしていた事で特に有名になったグループのひとつです。

と言いますか、ビートルズがガール・グループのシュレルズをカバーするという目の付けどころがニクイなあと思いますし、それをさらにビッグヒットさせて人々の記憶に残すビートルズのすごさ!を改めて感じてしまいますね。

1960年代に入るとアメリカのヒットチャートではガールグループが一種のブームとなり、次々とグループが誕生してはチャート界にヒット曲を送り込んでいました。

このシュレルズが1960年にリリースした「Will You Love Me Tomorrow」は、このグループ初のヒットチャートNo.1に輝いた曲で、当時は夫婦だった作詞・作曲コンビのゲリー・ゴフィン/キャロル・キングの名前を一気に有名にした楽曲でもあります。

シュレルズのもう一つの代表作「Baby It's You」はバート・バカラックの曲でしたが、ゴフィン/キングにバカラックという、このグループは当時からそうそうたる作家の楽曲を取り上げていたんですね。


「Will You Love Me Tomorrow」~オリジナル音源

オーケストラのインストものがヒットチャートを賑わせた、というのが’60年代のポップス界のひとつの特徴でもあった訳ですが、ここでまた一つオーケストラものとして、1960年の終りから’61年の初頭にかけて、ドイツのベルト・ケンプフェルトの「星空のブルース(Wonderland By Night)」がヒットしています。

ベルト・ケンプフェルトは言わばドイツ版ビリー・ボーンといった所でしょうか。

このは「星空のブルース」は、当時の日本でもかなりのヒットとなっており、以降、色んなラジオ番組などでテーマ音楽としても良く使われていました。

特にブルースの形態は取ってはいないのですが、少し哀愁を帯びた楽曲に「・・・のブルース」という邦題を付けるのが当時からどうも日本では流行りだった様です。

この曲は一種のヒーリング・ミュージックの要素を持っており、すっかりおなじみとなった冒頭のトランペットのメロディと、ゆったりしたリズムが聞こえてくると、すっかり心なごみますね。


「星空のブルース」~オリジナル音源

フロイド・クレーマーは、エルビス・プレスリーのレコーディング等でもおなじみの、知る人ぞ知るピアニストで、カントリー&ウエスタンで当時、新しい流れとなったナッシュビル・サウンドの世界で活躍したミュージシャンでもあります。

「ラスト・デイト」は、その彼が自ら作りヒットさせたピアノのインストゥルメンタル曲で、後にはボーカリストにもカバーされていました。

ポップスの世界で、特にピアノのインスト曲のヒットとなると随分珍しいのですが、この曲だけは例外で、その独特のピアノ奏法と共に’60年代にすっかりおなじみとなった曲です。


「ラスト・デイト」~オリジナル音源

ジョニー・ホートンは1959年に「ニューオリンズの戦い」でヒットチャートNo.1と同時にミリオンセラーを獲得しており、その翌年の1960年にはジョン・ウエイン主演の映画「アラスカ魂」の主題歌をリリースして、またまたヒットチャートを賑わせていました。

ゴールドラッシュでアラスカへ行き、一攫千金を夢見て北へ北へと向かう男達、といった内容の歌で、曲調はいかにも当時の西部劇風です。

♪Way up north、way up north♪という歌い出しが印象的な楽曲ですが、丁度この曲がヒットチャートをぐんぐんと上がっていた時、ジョニー・ホートンは残念ながら自動車事故で帰らぬ人となっています。

ですからこの「アラスカ魂」が彼の最後のヒット曲となったのでした。


「アラスカ魂」~オリジナル音源

また一つ、オールディーズ・ナンバーの必須アイテムの登場です。

ジョニー・ティロットソンが1960年に放ったヒット曲「Poetry In Motion」。
この曲は彼自身の代表作であると共に、ポール・アンカやニール・セダカ、コニー・フランシスといった人気アーティストが放った’60年代の、一般的に’オールディーズ’と言われる時代の音楽を代表する曲の一つでもあります。

彼のヒット曲としては他に「Dreamy Eyes」や「Cutie Pie」などが挙げられますし、後に日本でリリースしてヒットした「涙君さようなら」もファンにとっては懐かしい曲のひとつです。

それにしてもこの「Poetry In Motion」~彼女の事を’動いている詩だ’、と表現するとは何と言う’詩的’な表現なんでしょうね。


「Poetry In Motion」~オリジナル音源

ワンダ・ジャクソンというと、元はカントリー&ウエスタンの世界で活躍していた女性シンガーですが、その彼女が1960年に放ったヒット曲「Let's Have A Party」は何と、典型的なロックンロール・ナンバーでした。

それまでのワンダ・ジャクソンのイメージというと、まず出て来るのはヒット曲の「フジヤマ・ママ」でした。

その昔、この歌を聞いてまだ英語の歌詞の内容は分からなくて、洋楽で「フジヤマ」と出て来るのがちょっと奇妙にも思えましたが何となく、日本の事を歌ってるんだなあ、と思った記憶があります。

「Let's Have A Party」は、その彼女がロックンロールをダミ声で歌ってるわけで、これはかなりのインパクトがありました。

この頃、ポップス界はロックンロールの洗礼は受けていたものの、典型的なパターンの曲をシャウトして歌うのははほとんどが男性シンガーでしたから、明らかなロックンロールを歌う女性シンガーはまだ居なくて、彼女が率先して取り上げたのでした。

この時代の他の女性シンガーのレパートリーは、ほとんどが可愛い子風ポップスでした。


「Let's Have A Party」~オリジナル音源

「Let's Have A Party」~当時のTV映像

「Let's Have A Party」~こちらは比較的最近のカラー映像


ジョージア出身のレイ・チャールズが初めてチャートNo.1を獲得したのがこの1960年の「我が心のジョージア/Georgia On My Mind」でした。

原曲は「スターダスト」等で余りにも有名なホギー・カーマイケルの作品ですが、レイ・チャールズは「ホワッド・アイ・セイ」とは打って変わってしみじみと感動的に歌い上げています。

後にこの曲はジョージア州の州歌にもなったとか。

'61年の公民権運動のさなか、レイ・チャールズは人種差別に異論を唱え、歌う事を拒否したお陰でジョージア州から永久追放されるのですが'79年、今度は州議会から謝罪を受け、そして正式にこの歌が州歌となっています。

そしてこの曲はレイの、晩年まで最も大切なレパートリーとして大事に歌い続けられていました。


「我が心のジョージア」~当時のモノクロTV映像

「我が心のジョージア」~アメリカの人気ライブ番組「ミッドナイトスペシャル」1976年の映像

「パイナップル・プリンセス」というと日本では田代みどりさんのカバーでおなじみの曲ですが、当時の日本は1960年代のアメリカンポップスのカバーヒット全盛期という時代でしたから、オリジナルの洋盤を買ってまで聞く方はどちらかというと少数派だった様です。

この「パイナップル・プリンセス」のオリジナルはアネットで、「恋の汽車ポッポ」に続いてヒットした、彼女のアイドルとしての代表作に挙げられます。

曲調は、ハワイアン・ポップとでも言えばいい様なトロピカル・ムード満点のサウンドで、とにかくネアカな’アイドル路線全開’といった感じです。

こういう曲が流行った1960年代は、本当にいい時代だったんですねえ。


「パイナップル・プリンセス」~オリジナル音源

50年代から60年代にかけてアメリカで人気を博していた黒人コーラスグループ「ドリフターズ」~日本のお笑いコントグループではありません~の最大のヒット曲がこの1960年の「ラストダンスは私に」です。

この曲のリード・ボーカルは、後にソロで独立して「Stand By Me」などのヒットを飛ばすベンE.キングで、この「ラストダンスは私に」は、ドリフターズでは唯一のチャートNo.1を獲得した曲となっています。

日本ではこの曲は長年、越路吹雪さんの代表曲になっていた為に、今でもシャンソンの曲だと思われてる方が余りにも多いのですが、原曲はそれとはかなり違った雰囲気のイカしたR&Bコーラス・ナンバーなのです。

ですから今でもアメリカのナツメロ番組では、ベンE.キングはおろか、オリジナルメンバーがほとんど居ないドリフターズが出演してこの「ラストダンスは私に」を歌うシーンが良く見かけられます。

でもやはり名曲は名曲、いつ聞いても素晴らしい曲だという事には間違いありませんね。


「ラストダンスは私に」~オリジナル音源


ニール・セダカのヒット曲には「オー・キャロル」や「素敵な16才」、「カレンダー・ガール」と、メジャーのメロディで思わず心ウキウキする様なハッピーソングが沢山ありますが、数少ないマイナーのメロディでヒットした曲の代表的なものと言えば1960年にリリースした「君こそすべて(You Mean Everything To Me )」があります。

曲調は同時期に活躍していたポール・アンカの「You Are My Destiny」と同じマイナーのコード進行に3連のリズムというパターンで出来ているもので、ニール・セダカのナンバーとしては数少ない珍しい部類の曲です。

後半で半音転調を使ってより盛り上げる所など、Destinyとまんま同じじゃないか!と思われるでしょうが、ニール・セダカも「俺も一度やって見たんだ」という事でしょうか。

ポール・アンカの方はかなりドラマチックに歌い上げているのですが、ニール・セダカは、少し悲しくもしっとりと優しく歌い上げています。

こういうタイプの曲は日本人受けしやすいもので、やはり当時の日本でもヒットしていました。

「君こそすべて」~オリジナル音源

1960年に「さあベイビー、楽しくツイストを踊ろうぜ!」と「ザ・ツイスト(ツイストNo.1)」を腰をくねらせながら歌ってアメリカで一大ツイストブームを巻き起こしたのが、今でもキング・オブ・ツイストと呼ばれている「チャビー・チェッカー」です。

それはやがて日本でもかなりのブームとなり、当時の若者もこぞってツイストを踊りまくっていました。

今でもオールディーズ・ライブハウスへ行ってノリの良いロックンロール・ナンバーが演奏されると、ダンスフロアはおじさん、おばさんのツイスト大会と化します。
それだけツイストというダンスが音楽と一緒に当時は爆発的ヒットとなったのですね。

ツイストが爆発的ヒットしたのは、ちょっとクセのある黒人音楽としてではなく、ロックンロールをベースに、万人に対して「さあみんな、ノリノリになって楽しく踊ろうぜ!」と分かりやすい歌詞とサウンドでアピール出来たからでは、そしてそのビートに乗って踊っていると、リズム&ブルースからずっと脈打っている、根底に流れているビートで気分も高揚したからではないでしょうか。

チャビー・チェッカーはその頃、「ザ・ツイスト」のビッグ・ヒットに続いて「Let's Twist Again」、「Slow Twistin' 」、「Twist It Up」と、ツイスト・ナンバーを立て続けに送り込んでいます。

この「ザ・ツイスト(ツイストNo.1)」は、'60年に全米チャートのNo.1を獲得していますが、チャビー・チェッカーが'61年にエド・サリバンショーへ出演した事がきっかけでメーカーへの問い合せが殺到してレコードが再発され、'62年に再度No.1となるという珍事も引き起こしています。
恐るべしはメディアの力でしょうか。


「ザ・ツイスト(ツイストNo.1)」~当時のTV映像より

「Let's Twist Again」~当時のTV映像より

「Slow Twist」~こちらはちょっとスローなツイスト

「ツイスト・メドレー」~1985年のライブ映像より/Let's Twist AgainとThe Twistのメドレー

実の兄と一緒にロカビリーの世界でバーネット・トリオとして活躍していたジョニー・バーネットが、ソロとして1960年に最初に放ったヒット曲が「ドリーミン(邦題:夢に見る恋)」です。

「いつか、誰か、僕を愛してくれる人が現れるのを夢見ている」という詞の内容で、D-Bm-G-A7という循環コードと8ビートで出来ており、ポール・アンカの「ダイアナ」と同様の、この時代の典型的なポップスの形式を取っています。

また、彼の最大のヒット曲は、「ドリーミン」に続いて2枚目のヒットとなった「You're Sixteen」で、こちらは’70年代に入ってリリースされたリンゴ・スターのソロ・アルバムでカバーされてた事でもおなじみです。

この2曲を聞き比べてみますと、楽曲としての音楽的な完成度が高いのは、やはり「You're Sixteen」の方ですねえ。

後、ジョニー・バーネットでは「片目のジャック」という曲がありまして、こちらの方は日本でだけヒットしており、当時は’克美しげる’が日本語でカバーしていました。


「ドリーミン」~オリジナル音源

「You're Sixteen」~オリジナル音源

1950年代に入ってからのソリッド・エレキギターの開発・発展と共に、そのサウンドがロックンロールの世界でも重要な位置を占める様になり、やがてインストゥルメンタルの分野でもエレキが主役となる独立した音楽として流行の最先端を走る様になります。

1960年にデビューしたベンチャーズは、特にエレキ・インストの世界でそれ以降長い間、特に日本の音楽シーンに多大なる影響を与え続ける事になります。
その記念すべきデビュー曲が「Walk Don't Run(急がば廻れ)」でした。

デビュー当時のベンチャーズは、後にリード・ギタリストとして日本全国のエレキ小僧の憧れの的となるノーキー・エドワーズがベースを担当しており、楽器もギター、ベース共まだモズライトではなく、フェンダーをプレイしていました。

またこの「Walk Don't Run」 の初期バージョンでは前半は8ビートですが、サビでリズムが4ビートに変わるというアレンジがなされており、初期のベンチャーズ・サウンドでは最初はジャズドラマーが叩いてこうなったんだ、というのが分かります。

後にベンチャーズ・サウンドが確立されてサーフィン・サウンドがブームになると、この曲をリアレンジした別バージョン「Walk Don't Run '64」で、一世を風靡したあのクロマチック・ラン/いわゆる「テケテケテケテケ」が登場し、トレモロ・アーム・プレイと共にエレキ・ギターの必須テクニックとなります。

それ以降この「テケテケテケテケ」が大流行しますが、その頃は誰もが一度はエレキを持って試みたのではないでしょうか。

ベンチャーズの初来日は1965年の初頭で、その演奏はライブアルバムで聞く事が出来るのですが、その初来日ではメンバーはバインディング入りの赤いモズライト'63年モデルをプレイしておりました。

その年の夏、再度来日したベンチャーズは日本全国をツアーでまわりますが、今度はパール・ホワイトの'65年モデルのモズライトをひっさげて日本中にエレキ・ブームを巻き起こします。

その模様は翌1966年、「愛する音の侵略者たち」というタイトルで映画として公開されており、その映像で当時の日本各地での熱いステージの様子が手に取る様に分かります。
この映画の中には当時の広島市公会堂の演奏シーンと、広島の本通りを歩くメンバー、そしてその後をぞろぞろ付いて歩くファン、というシーンまで収録されています。
実はこの頃がベンチャーズは最も’旬’だったのではないでしょうか。

そしてこの時のスタイルこそが後々まで長年に渡ってベンチャーズ・ファンの間に深く浸透する事となり、ステージの配置とパール・ホワイトのモズライト’65年モデルは、今でもファンの間では永遠のアイテムとなっています。

それでは当時の映像と一緒にそのサウンドをたっぷりとお楽しみ下さい。


「Walk Don't Run」~オリジナル・バージョン/初期の映像から

「Walk Don't Run '64」~こちらはテケテケ入り、パール・ホワイトのモズライトをプレイするベンチャーズ、ドラムのメル・テイラーの元気な姿が見えます/’65年の夏に行われたライブ・イン・ジャパンの映像から

「Wipe Out/朝日の当たる家/テルスター」~同じくライブ・イン・ジャパン’65より

「10番街の殺人/バンブルビー・ツイスト/ブルドッグ」~同じくライブ・イン・ジャパン’65より

「パイプライン/ダイヤモンド・ヘッド」~同じくライブ・イン・ジャパンより/これぞベンチャーズの代名詞!!

「ダイヤモンド・ヘッド/キャラバン」~’65年のアメリカのTV番組より/貴重な映像ですが残念な事に「キャラバン」はショート・バージョンです

1950年代の終りにディズニー・プロが鳴り物入りでデビューさせた、当時まだ10代のアネット、彼女は60年代にはアメリカの芸能界ですっかりおなじみになった美人タレントでした。

その彼女のデビュー曲が1959年の「トール・ポール」、そして60年代に入って「Toot Sweet」や「ブルー・ムー・ムー」、当時噂のあったポール・アンカが彼女に捧げた「恋の汽車ポッポ/Train Of Love」等、立て続けにヒットを飛ばしていました。

彼女は60年代には映画の世界でも様々な作品に出演しており、シンガーというよりは歌って踊れるタレントとして、また女優として幅広く活躍しております。


「トール・ポール」~オリジナル音源

「Toot Sweet」~オリジナル音源/当時の典型的なティーンエイジ・ポップス

「ブルー・ムー・ムー」~オリジナル音源

「Softly My Love」~オリジナル音源/甘~いライブソング。

「Our Annette」~オリジナル音源/このいかにも”古き良きアメリカン・ソング”というタイプの曲は、フランキー・アヴァロンが歌うアネットへのトリビュート・ソングです。

1960年、ブライアン・ハイランドが若干16才/当時まだ高校生でリリースしたデビュー・シングルがこの「ビキニスタイルのお嬢さん」で、たちまちヒットチャートNo.1を獲得、同時にミリオンセラーとなっています。

泳ぎに行って当時流行り始めたビキニの水着を着たものの、恥ずかしくてたまらなくてどうしよう?、という女の子を歌っている曲ですが、ラテン風なリズムに乗せてブライアン・ハイランドは明るく楽しく嫌み無くリズミカルに歌っており、ヒット曲としての出来栄えも申し分ありません。

日本ではダニー飯田とパラダイスキングでもカバーヒットした曲で、その当時のボーカルは坂本九、「♪海辺の狭い小屋から~あの子は出られない~どこかで人が見てたら~どうしようかとふるえてる~♪」という岩谷時子さんの訳詞の方を良くご存知の方も沢山いらっしゃるでしょう。

ブライアン・ハイランドは、この「ビキニスタイルのお嬢さん」と同様の曲調で後に「ベイビー・フェイス」という曲もリリースしておりますが、こちらの方は日本でだけヒットしています。


「ビキニスタイルのお嬢さん」~オリジナル音源/色んなビキニの写真と一緒にお楽しみ下さい。


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